「今ぞ!われに続け!」
随行していた騎兵たちが一瞬耳を疑う。
「公達さま!」
戦袍に銀鎧を着けているとはいえ、まさか謀将と思っていた荀攸が先陣をとるとは誰も思ってはいなかったのだ。
あわてて追いすがる将兵達を率い、荀公達は颯爽と文醜隊に突入していった。
(あの時、私は一度命を失ったも同じ、人間なかなか二度は死ねぬものよ。)
「期を逃すな!蹴散らせ!」
荀攸の剣が指し示す先に、まさに孤軍奮闘する文醜の姿があった。
・・・・・・・・・・・・・
初平元年(190年)黄門侍郎であった荀攸は、儀郎の鄭泰等とともに董卓暗殺を図ったが、密告により露見した。
ところが投獄された荀攸は、不思議なことに獄死させられる(当時は獄中で毒殺させるというのが日常的に行われていた。)事も無く、ただ長く止め置かれることになった。
同じ罪状で投獄された何〔禺頁〕などは怯えて心を病み発作的に自殺したのだが荀攸は泰然自若であったと伝えられる。
「ふう・・・、牢というところはこれほど冷えるところであったかよ・・・。」
瞑目する荀攸の牢の前に、およそ似つかわしくない男が立っていた。
「董仲穎様、ですか。・・・」
「お前はやはり、太師とは呼んでくれぬか。まあ良い、お前と君主論を戦わすほどわしも暇ではないわ。」
荀攸はこれで自分の運命は定まったと考えた。
「私は消えねばなりませんな。」
「何を言うか。人一倍生きんとしている者が。」
董卓の笑い声が暗い牢内に響くと荀攸も不思議と笑いたい気分になってきた。
「誇り」とか、「恥」とかの話になればとうに自分は「誇り高き死」を選択せねばならないはずなのだが、寒さに身体を丸めても生きようとしている。確かにそうだ・・・
「わしはお前を殺さんよ。」
「何故?」
「そう決めた。」
子供っぽい表現が荀攸の心に小骨のように刺さる。
「わしは常に正しい。それで良い。だからお前を殺さぬと決めた事も正しい。」
「ただここで朽ち果てさせまするか。」
いやいや・・・と首を振りながら董卓は答える
「わしは、お前を臣に迎えたかった。お前のように知略、軍略に優れたものを我が配下に是非欲しかったのだ。そんな傑物を惜しいと思う者はわしだけではあるまいよ・・・。」
「過分なるお言葉かと・・・・」
「お前が求められる者なら、わしがいかなる手を尽くそうと生き延び天下を動かす仕事をするだろうて。」
くるりと踵を返しながら、董卓は厚地の衣を牢内に放った。
「これを着ておれ、風邪などで死なれたとあってはわしの名にキズがつく。」
「遠慮なく・・・」
己が身体を重そうに運ぶ後姿に、思わず最も嫌っていたはずの言葉が口をついた
「董太師・・・」
立ち止まり、長い長いため息、そして・・・
「この度ばかりは、己が目が節穴であって欲しいがな・・・」
荀攸は、この時不覚にも董卓に惹かれた。自分の予想外の心の動きを少々もてあましていた。
そんな心の動きを知ってか知らずか、董卓の後姿は闇に消えた。
荀攸が見た董卓の最後の姿は、その大きくも虚しい背中であった。
董卓が呂布に斬られ、長安を離れる荀攸の心に何が去来したかはわからない・・・。
ただ完全に王朝、政治から隠れてしまおうというような動きをみると、確かに一度死んだようなものなのかも知れない。
・・・・・・・・・・・・・
白馬で顔良を打ち破った帰途、曹操軍は再び袁紹軍と遭遇した。
「敵将、文醜殿!」
あれだけてこずった顔良に勝るとも劣らない猛将である。
荀攸以外の将は退却することを主張したが荀攸のみが退却に反対した。
「これは敵を捕まえる餌です。ここで退却してはなりません。」
「しかし公達殿、その餌が食い尽くされたらいかがなさる。」
何か言いかけた荀攸は曹操の顔をみてにやりと笑った。
「殿。わが隊にお任せを。」
「任せよう。」
曹操の答えは簡単である。
「皆、荀公達の策に従うがよい!」
そして、その後
「輜重隊は最後尾に」
「それでは襲われまする。」
「襲われてもらわねば困る。そして襲われたら惜しまず逃げていただきたい。」
「わかりもうした。」
不服そうな輜重隊の将に荀攸は
「このたびの策、あなた方の役目の重さが九分です。」
「残りの一分は?」
「それは私どもが敵を殲滅すること。」
不敵なまでの自信を荀攸から感じた輜重隊長は作戦の成功を信じた。
輜重隊に追いついた文醜隊は本隊追撃そっちのけで輜重を襲い始めた。
陣形が崩れ、部隊が有機的な動きをとれないのを見てとった荀攸は右手に長剣を高々と掲げ、混乱の極みに陥っている文醜軍の方向に振り下ろした。
「今ぞ!われに続け!」
随行していた騎兵たちが一瞬耳を疑う。
「公達さま!」
戦袍に銀鎧を着けているとはいえ、まさか謀将と思っていた荀攸が先陣をとるとは誰も思ってはいなかったのだ。
あわてて追いすがる将兵達を率い、荀公達は颯爽と文醜隊に突入していった。
「期を逃すな!蹴散らせ!」
荀攸の剣が指し示す先に、まさに孤軍奮闘する文醜の姿があった。
文醜はさすがに練磨の猛将である、包囲を突き破ろうと戟を旋回させ、孤立無援になりながらも奮戦を続けていた。
「歩兵どもは退けい!あとは騎兵に任せよ!」
叫びながら突進して行く荀攸を歩兵達は呆気にとられて見送った。
「文醜殿!見参!曹孟徳が臣、荀公達お相手申す!」
次の瞬間、戟と長剣が火花を散らせた。
実は驚いたのは荀攸隊の諸将であった。
「あの文醜」と互角に渉りあっているのは、およそ武勇のにおいがしない、そんな男であったからだ。
「大将に続け!」
「公達様をお助けせよ!」
将達の勢いも戦意も自然荀攸隊が上になるのは当然といえた。
何合かの後・・・
「・・・・見事・・・・。」
文醜の体は馬上から落ち、荀攸は血刀を掲げ叫んだ。
「文醜殿は討ち取った!命を無駄にするでない!降る者の命まではとらぬ故、武器を捨てよ!」
敗走した文醜隊の生き残り達は「謀将 荀公達」は知ってはいた。が、まさか「あの」文醜を討ち取れるほどの武勇を持った謀将がいるとはとても信じられず。
「文醜は荀攸隊に押し包まれて殺された。」
と信じたかったようである。
その後、荀攸は官渡における勝利を決定つける献策を数多くなしている。
曹孟徳が愛したのは、その知謀ではなく、それを己が手で実行に移せる武勇であったのかも知れない。
「我が生涯、すでに余生。惜しむ命も知恵もございません。」


